中国の台頭と日中関係:ホットな経済・冷えきった政治・アンビバレントな文化 The Rise of China and Japan-China Relations: Economically Hot, Political Cold and Culturally Ambivalent?

紀宝坤(Kee Pookong)+宮原曉

このドラフトは,紀先生からいただいたキーワードをもとに,試みに宮原が文章化したものである。本報告は,最終的に紀先生と宮原の共同報告にしたいと考えている。このため,キーワードから紀先生の主旨を汲み取りながらも,特に青字で書かれた箇所では,宮原自身の論を展開した。もとより,次の手順としては,私が文書化したものを紀先生にフィードバックし,議論をしたいと考えているが,時間の関係上,ドラフトとして間に合うかどうかは心許ない。このドラフトを読む際には,この点に留意していただき,シンポジウムの報告では,是非,紀先生の議論に注目しいていただきたいと思う。

1. 日中関係の複雑さ Japan-China relationship is one of the most complex relationships for China

日中関係は,中国にとって、最も複雑な関係の一つである。日本に対する中国の見方は、まずもって「地理的に近い存在」ということが挙げられる。それゆえに「文化的にさまざまな恩恵を中国から受けてきた存在」という見方も持っている。また近代史において中国に侵攻した侵略者として,憎悪と怖れの対象ともなっている。こうした憎悪と怖れは,「中国封じ込めをとするアメリカの同盟者」という見方の中に再生産されている。

思想的,文化的に日本は、中国にとって「西欧的な思想をもたらす存在」であった。同時に,日本は「経済発展のモデル」であり,今日に至るまで「経済援助や投資,技術移転が期待できる存在」であり続けている。

中国に対する日本の見方はどうだろうか。文化的な親近感は,第1に挙げられる点であろう。占領と中国における戦争は,容易に払しょくできない罪悪感を生み出し,今日に至るまで日本人の中国に対する感情のかなりの部分を占めている。こうした罪悪感とともに、近年,国境線をめぐる対立などにより,侵略者として中国を恐れる感情も指摘することができる。

より現実的な問題では,海洋での鉱物資源やロシアの液化天然ガスをめぐる利権争いにより,経済的なライバルという見方も出ている。また、これと全く逆に多くの経営者たちが中国の市場としての価値を,中国観の根幹に据えている。

こうした企業の経営者も含めて、中国に対する日本の見方には肯定的なものも,、否定的なものもあるが,いずれにしてもその根底には,「日本の優位性」というゆるぎない前提があるように思える。そうした優位性は,一面で西欧近代が非西欧(実は日本も含まれる)に対するときの優位性であり,また一面では,日本の文化の「他者なき自文化像」に基づく優位性でもある。

2. 今日における紛争と緊張の原因 Current sources of conflicts and tensions

日中双方の相手に対する見方は,ある種の紛争や緊張を生み出してきたし,逆にそうした紛争や緊張はそれぞれの対日観,対中観を補強し,あるいは変更を加えてきた。

今日の日中間に紛争と緊張を生み出した最たる原因は,言うまでもなく戦争に関連した問題である。「過去に対する謝罪」「戦後補償」「強制労働」「『従軍慰安婦』」「毒ガス」「靖国神社」「教科書問題」,これらは詳細な説明がほとんど不必要に見えるくらい使い古された問題である。しかし、これらの問題が紛争と緊張を生み出す理由は、単にこれらの問題の「事実」としての側面だけではない。「靖国神社」や「教科書問題」などは記号化され、さまざまな情緒や気分、誇張したイメージや幻惑が付随している、あるいは付随していると信じられているところに問題の複雑さがあるともいえる。「南京大虐殺」は事実である。しかし、伝えられていることに対しては、「事実である」ととらえる人もいれば、「誇張されている」ととらえている人もいる。

領土領海問題も同じような構造を持つ。中国と日本の間の境界線は、この地域の歴史をどうとらえるかという点とともに、国際法そのものの発展史やそれぞれの国が国際法を、どのように受け入れ、そのなかでどう自己規定をしているか、という問題にもかかわっている。国際法上に自己を規定するという面では、この地域では最も速いペースで西欧近代化が進んだ日本に優位性がある。しかしその優位性も、さまざまな歴史の偶然が積み重なって生み出されたものである。そうしたなかで,双方の「国民」は,非日常でしかない国境線を,まるで争いがこじれたときの隣家との境界線のようなものとしてイメージする。海洋資源や鉱物資源に対する利権とは,全く無縁の暮らしをしていたとしてもである。

もっともエネルギー資源をめぐる争いは,「靖国問題」や「教科書問題」、あるいは「国境問題」とは違って,双方が並びたたないという問題でもない。尖閣諸島をめぐる問題や,東シナ海の油田をめぐる問題は,南沙諸島での問題と同じように,紛争に加わることで最終的な共同開発への参加権を獲得しているのである。

国連安保理常任理事国入りの問題や台湾問題も,両国の間の紛争と緊張の原因となっている。しかし,これら二つの問題は,日本と中国との間で同じように重大視されているわけではない。中国にとって日本は台湾問題にことあるごとに介入する存在とみえるのかもしれない。これに対して日本国民の大半は,台湾問題に無関心である。台湾の独立を支持するにせよ、しないにせよ,もっと台湾問題に関心を寄せてもよいはずなのにである。同様に国連安保理常任理事国に問題も,日本国内では外務省の失態ばかりが目につくくらいで,中国が考える東アジアの覇権争いといった構図の中にこの問題をとらえようとする日本国民はあまり多くはない。

以上のように、中国と日本の間の紛争と緊張を生み出す原因は,さまざまなタイプのものがある。こうした紛争と緊張の原因を,今日の中日,日中関係に結びつけてとらえるためには、日中間の関係史をつぶさに振り返っておく必要がある。

3. 日中関係の歴史 History

(1)中国対外関係史の一幕として――中国の歴史的な傷つきやすさの感覚 China's historical sense of vulnerability

中国はその悠久の歴史において様々な敵の脅威にさらされてきた。北方からの侵略者を防御するための万里の長城は,そうした中国の歴史を物語るものである。しかし,万里の長城のような遺構はなくとも,ソビエトやアメリカ、日本,インドなどの脅威はそのときどきに存在し続けた。そうした脅威と脅威に対する傷つきやすさの感覚,それに対する防衛反応に中国の対外関係史の特徴の一つがある。 日中関係もそうした中国の対外関係史のパタンを踏襲する。例えば1960年代後半の中ソ紛争と69年の軍事衝突は,ソ連に対する恐れの反作用として,日本との関係改善が模索された。その後,1975年,周恩来による4つの近代化(現代化)キャンペーンでは,日本の援助,投資,技術移転,経営手法が導入され,その潜在的な推進力となった。日中関係は,中国の他の対外関係とは無関係に独自の発展を遂げる得るものではなく,他の対外関係とのバランスによって,関係が改善したり,悪化したり,振り子のように揺れ動くものなのである。

(2)中国共産党内部の権力闘争と日中関係 Chinese Communist Party internal struggles affected China-Japan relations

日本人には見え難いことであるが,日中関係史の第2の特徴は中国共産党内部の権力闘争が関係に反映されるということである。こうした権力闘争影響は,しばしばずっと後になってから明らかになる。日中関係は両国の間の政治史であるというだけではなく、純粋に中国国内の政治史なのである。

1985年末と1986年末,北京と西安,成都の学生と労働者が,「日本による第2の侵略」に反対して大規模なデモを起こした。過去の日本軍による残虐行為と日本製品の流入に抗議するというのがデモの目的であり,直接的には,宝山鋼鉄公司の収支に関する不正疑惑や日本の政治家の配慮を欠いた発言が契機となっていた。しかし,こうしたデモの背後には,中国共産党内部の改革開放を積極的に進める胡耀邦総書記と急速な改革に反対する李鵬との路線の対立があった。また時期は前後するが,1985年に中国が「靖国問題」を持ち出したのは,胡耀邦総書記と,靖国神社を公式参拝した中曽根首相が懇意であったことから,総書記に反対する一派によってしかけられたものである。

1987年,胡耀邦はついに失脚する。鄧小平が胡への指示を撤回し,かわりに李鵬と陳雲を支持したのである。その後,日中関係は,中国の対外関係のバランスの変化によって再び緊密なものとなる。1989年6月4日の天安門事件以後,西側G7各国が中国に対する制裁を発動したからである。

1992年,天皇陛下の中国訪問が実現する。1998年,江沢民国家主席が中華人民共和国の元首としてはじめて訪日した。しかし,江沢民は小渕首相から文書での謝罪を引き出すことはできず,関係は改善するどころか,悪化した。

この1998年は,日中関係にとってきわめて大きな方針転換がなされた年である。1945年から1998年まで,日本国政府は一貫して中国に対して「低姿勢」を保ってきた。それは日中戦争に対する罪の意識によるものであった。しかし,戦後50年となる1995年以後,日本国政府は中国に対してより強硬な姿勢を示すようになる[Vogel, 2000]。1998年は,そうした姿勢が国家主席の訪日により決定的となった年ということになる。

日中関係の歴史は,感情の政治学に根ざしつつ,中国の対外関係のバランスや中国共産党内部の激しい権力争いの影響を受けてきた。1998年における日本の対中外交の路線変更は,日本側がある程度,そうした中国の対外政策の性格をある程度理解するようになったことを示している。2005年10月17日,小泉首相は靖国神社を参拝した。胡錦濤国家主席は,かつて胡耀邦総書記にかわいがられていたが,同じように共産党内部の権力闘争,とりわけ江沢民派との対立に苦慮している。そうしたなかでの参拝に対する抗議なのである。

(3)文化的交流の歴史 Historical Cultural Contacts

日本と中国の間の文化的拘留の歴史に目を転じてみよう。日本への中国からの影響は,少なくとも2000年前に遡ることができる。福岡県志賀島では,後漢(AD 25-220)と当時その地域を支配していた倭国の国王との関係を示す金印が見つかっている。古代日本の言語や仏教,建築,哲学において中国の果たした役割の大きさは,もはや改めて述べる必要もなかろう。

逆に日本から中国への文化的影響の方はどうであろうか。時代はずっと下って1896年,清朝の中国から初めての留学生(Liu Hsueh Sheng )13人が日本に渡っている。この後,1896年から1937年におよそ30万人の中国人留学生が日本に渡航している[中国人日本留学史]。

日本から中国への知識や思想の流入は,清朝末期から民国期にかけての中国の近代化に重要な役割を果たした。日本にやってきた多くの若い中国人知識人は,中国におけるナショナリズムが発展していくうえで欠くことのできない新思想――中国が社会主義化していく上で重要な思想を含めて――を獲得した。そうした留学生の中には以下のような著名人も含まれている。

中日戦争以前の日本は,中国の政治活動の拠点であり,一種の「政治天国」であった。日本にやってきた中国人留学生は,植民地主義に抗すること,ナショナリズムを発揚させることを日本において学んだ。そうしたなかには抗日運動の思想と論理ももちろん含まれていた。

政治活動の拠点としての日本は,孫文に率いられた辛亥革命の拠点ともなった。1905年,孫逸仙は,日本で学んでいる中国人留学生とともに中国革命同盟会を組織した。東京神楽坂界隈は,当時,多くの中国人留学生が集まり,革命の議論が戦わされた。

(4)中国人と日本人の文化的混血 Chinese-Japanese Hybridity

近代以降の日本と中国との文化交流は,ナショナリズムの胚胎と対立が軸となっており,クレオーレ主義に関しては必ずしも光が当てられてこなかったが,そのなかで蘇曼殊(Su Man-shu 1884-1918)の存在は興味深い。蘇曼殊は,1884年,後述するように中国人の父と日本人の母との間に生まれた。1889年に祖籍広東香山に帰り,香港で教育をうけるが,1898年に再び来日し,横浜大同学校,早稲田大学高等予科で学んだ。

その後,康有為暗殺を計画,挫折後,ヴィクトル・ユーゴ『レ・ミゼラブル』の翻訳『惨社会』をしたり,タイやスリランカを放浪して仏教学やサンスクリット学んだりした。一時期,僧籍にあって曼殊も法号であるが,34年の人生でテロリストとして,革命家として,翻訳家・小説家としてその時々を生きながら,アジア各地を放浪し,詩人としての生涯を終えた。(蘇曼殊の生涯についてはhttp://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/suman.htmlを参照)

蘇曼殊の出生には謎がある。横浜の茶商人であった蘇傑生と日本人河合仙との間に生まれた子どもであるという説,河合仙の連れ子であったという説,蘇傑生と女中おわかの間に生まれた子どもであるという説がある。蘇曼殊は,中国人と日本人との混血であった鄭成功と自分とを重ね合わせた詩を書いているが,彼自身あるいは彼の作品のなかに中国的な要素と日本的な要素の融合が見られるとは言えない。内面的なハイブリディティ(文化的混血)は,必ずしも外面的な文化の創造として定式化できるわけではないからである。

一方,蘇曼殊はその混血性のため,とりわけ日中戦争期に明治文壇の一人として盛んに宣伝された。日本と中国との間の友好関係を演出する政治的な意図によるものである。しかし,蘇曼殊の漂泊は,内面的なハイブリディティとも相俟って,そうした政治的な意図よりもはるかにスケールの大きなものであった。

ハイブリディティという点で,もう一つ注目すべきは,「中国残留孤児」(中国帰国者)の存在である。「中国残留孤児」あるいは「中国帰国者」という呼称の是非をめぐる議論からも伺えるように,「中国残留孤児」(中国帰国者)は,中国と日本双方のアイデンティティを持っている。しかし,「中国残留孤児」(中国帰国者)を受け入れる側の日本社会は,必ずしも彼ら,彼女たちのハイブリディティを正面から受入れてきたとは言えない。「中国残留孤児」(中国帰国者)を日本人として扱うか,中国人として扱うかの二者択一しかなかったのである。

こうした状況の下,「中国残留孤児」(中国帰国者)の日本での生活がいかに苦悩に満ちたものであるかは,想像を絶するものがある。少子高齢化による日本の市民社会の変化は,「中国残留孤児」(中国帰国者)の位置づけを変化させる分岐点となるかも知れない。

(5)日中関係における日本の「逸脱」――以後200年に影を落とす50年(1894-1945) Aberrations in China-Japan Relations - 1894-1945 ("50 years that overshadowed 200")

日中関係の歴史を理解する上で,避けては通れないのは,1894年から1945年までの50年間をどう観るかという問題である。この50年間は,日本と中国の関係にとってとり返しのつかない逸脱の50年である。それをどうとらえるかによって,日中関係をどう観るかが決まるといっても過言ではない。中国において,また日本においても,かなり多くの人々が抱くイメージは,1894年から1945年の50年にこそ日本の本質があるという観方であろう。だからこそ監視を緩めれば知らぬ間にとり返しのつかない「いつか来た道」にたどり着くと言うのである。

このようなイメージに対して筋道だてて反論することは容易ではない。ここでは,1894年から1945年の間の出来事は,日中関係の逸脱であり,その本質ではない,という観方の可能性を示唆し,逸脱の50年間の事跡をたどることにしよう。何が逸脱を引き起こしたのか,なぜその逸脱は50年もの長きに及んだのか,という問題は,読者への,あるいはオウディエンスへの問いかけとしたい。

日中関係における日本の「逸脱」の中心を占めているのは,日中戦争と満州の植民地統治である。日本では,日清戦争と日中戦争は,別の戦争を指しているが,中国の側から見ると第1次中日戦争(1894年-1895年)と第2次中日戦争(1937年-1945年)ということになる。第2次中日戦争の8年間の抗日戦争(抗戦)で1000万から2000万(?)の中国人が命を落とした。

いかに日中関係が中国の対外関係のバランスや共産党内部の権力闘争を反映するといっても,日中戦争と満州の植民地統治が日中関係の歴史に与えた影響を軽く見積もるわけにはいかない。この点で例えば「靖国問題」を政治的言説に利用しようとする者は,それが日本政府であろうとマスコミであろうと,中国政府であろうと,日中関係を正しくとらえようとしているとは言えない。逸脱の50年間において,とりわけ日露戦争後の40年において,なぜ日本のナショナリズムはアジアへと膨張せざるを得なかったのか,大東亜共栄圏とは何であったのか,文化システム(この定義は難しいが,さしあたりアイデンティティやナショナリズムを生み出すシステム)として戦前の日本をとらえる視点が必要なのである。

4.今日的問題――引き続く歴史的な紛争 On-going Historical Disputes

上で提示したナショナリズムを生み出す文化システムという観点から,今日の政治的問題を今一度,見直してみよう。 釣魚台(Diaoyutai),あるいは尖閣諸島をめぐる領土争いは,第1次日中戦争の時代から現在まで続く日中間の紛争である。第1次中日戦争後,台湾とともに日本領となる。このとき清国が釣魚台を日本にどのように割譲したのか,あるいは日本が主張するように国際法上の「先占」の原則によって獲得されたのかが領土の問題の本質の第1である。また,第2次中日戦争後,釣魚台は沖縄とともにアメリカによって占領統治されるが,1970年に沖縄とともに日本に返還されている。これが領土問題の本質の第2である。以下は,http://ja.wikipedia.org/wiki/尖閣諸島領有権問題からの引用した年譜である。

1996年,「保釣運動」(釣魚台の領有を主張する運動)は,中国への返還を前にした香港において,民族主義の高揚とも相俟って盛り上がりを見せる。こうした「保釣運動」は,台湾や華人社会にも広がりをみせ,1999年5月8日の米軍による在ベオグラード中国大使館誤爆や,同じく1999年のロス・アラモス国立研究所職員李文和の機密漏洩疑惑などと同様に,華人エスニシティの世界的広がりを考えさせられる。個々の運動の担い手たちの政治的なアイデンティティとは別に,文化的なアイデンティティを生み出すシステムについて考えておく必要があろう。

5.文化システムとしての中国

文化的なアイデンティティを生み出すシステムとして中国を再考した場合,私たちはどのような中国を再発見するであろうか。こうした問いに対して答えるには,まだまだ材料が不足しているが,暫定的に以下の要素は,考えておいてもよいだろう。

(1)中国の台頭 China's Rise

1979年以降,中国のGNP成長率は毎年9-10%を保っている。10年ごとにGNPが倍になる計算である。こうした高度経済成長によって,中国は2025年までに超大国となる。19世に急速な産業化を成し遂げたアメリカが,GNPを倍にするのに25年かかったことを考えれば,まさに経済史上未曾有の発展と言えよう。ある論者によれば,中国の今日の発展は,漢王朝の繁栄に匹敵するものであり,さらなる栄華を達成するだろうという。

中国の高度経済成長は,華人エスニシティを生み出す文化システムにとっての血液のようなものであるが,同時に,経済発展をめぐる格差が拡大し続けることで,不満を生み出す。後者は,華人エスニシティを生み出す文化システムにとって神経系統のようなものである。

(2)チャイニーズ・ナショナリズム(被害者的ナショナリズム) Chinese Nationalism - Aggrieved Nationalism

チャイニーズ・ナショナリズムは,反応的なナショナリズムの形態をとる。それは19世紀の後半に現れた比較的最近の現象であり,1840年から1842年のアヘン戦争に端を発する帝国主義の襲来への反応として現れた。

(3)ナショナリズムの再燃 Nationalism has become important again for China

マルクス・レーニン・マオイズムの凋落後,中国共産党は,その正当性(天命)を確保するために上位のイデオロギーを必要とするようになる。ここに中国にとってナショナリズムが再び重視される理由がある。

こうした新たなナショナリズムがどのように発現するかを分析することは,文化システム(文化的アイデンティティを生み出すシステム)を理解するうえで,不可欠な要素となるであろう。

6.むすびにかえて――未来 The Future

日中関係の未来は「文明の衝突」という概念でとらえられるだろうか。現時点で,断片的に言えることは,次のようなことである。

  1. 中国に関して「文明の衝突」がもしも起こるとすれば,それは中国とアメリカとの間であろう。世界の多極化は,アメリカのヘゲモニーや米日同盟による中国封じ込め政策に対する中国の恐れを和らげる。
  2. 「一つの中国政策」は,単に政治的のみならず,文化システムの再生産という観点からも,クリティカルである。中国問題の核心としての「一つの中国政策」に対する日本側の曖昧さは,北京の反感を買うだろう。が,こうした揺らぎと揺さぶりは,中国と日本の文化システムを解読する上で鍵ともなる。
  3. 文化システムと政治システムは,合致する場合もあるが,そうでない場合の方が多い。中国の文化システムの揺らぎは,もはや政治体制の範疇を越えている。中央集権的な中国政府は,これまで少なくとも日本に対する反応を制御してきた。しかし,今後,脱中心化が進行すれば,より多様な地域的,個別的,官僚的な反応が支配的になるであろう。例えば,2005年4月の反日デモにおいてインターネットが重要な役割を果たしたが,そうしたインターネットの使用は,中国当局がコントロールし得る範囲を超えていた。

アメリカ国内の顧客サービスセンターの電話がフィリピンに転送され,顧客の要望にこたえるように,大連には,日本の顧客サービスセンターが開設されている。こうした現象は,文化システムが政治システムよりも柔軟であり,硬直した政治システムを超えて広がることの証左である。本報告の中ほどで筆者は,文化的混血性の問題を扱ったが,政治的に硬直した日中関係が大きく変わるとすれば,文化システムのレベルでの話であり,日本と中国の文化的混血性(ハイブリディティ)を担う人々こそがその主役となる。

日中関係を改善する可能な処方箋として,「中国・日本・韓国の合同教科書」や「靖国神社への訪問中止」といった選択肢が挙げられことがあるが,政治的なレベルでの議論と文化的なレベルの議論を明確に区別し,これらの処方が文化的なレベルで何を暗示するか,よく検討する必要がある。


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